明治38年頃(1905年)の細井岩彌氏の報告によると当時既に、旧坑や精錬の跡が見られたという、
明治29年(1896年)大谷鉱山鉱業組合が作られたそうです組合では四つの鉱区を設定していたようで
す、その当時の絵葉書や写真が何処かに存在しているかもしれませんが、出会えませんね、参考まで
に明治後期から大正初期の頃の絵葉書を掲載してみました。大清水銅山は大正4(1915年)2月の夜
に発生した雪崩で36名もの犠牲者を出し壊滅状態となり休山となりました。現在の阿賀野市に新潟
水電鰍フ水力発電所ができた頃でもありました。
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